大岡弥四郎とは越前忠相や築山殿との関係は?最後の死因は?NHK大河ドラマどうする家康

家康最大の苦悩
築山殿事件のキーパーソンと言えば大岡弥四郎!

え?ご存じないですか?
それでは虹色の歴史と大河ジャーナルがわかりやすく解説しちゃいましょう!

大岡弥四郎とは:どんな人?家康との関係は?

大岡弥四郎(おおおかやしろう)は、資料の混同のせいなのか大賀弥四郎とも言われています。

徳川家康の馬の口取り(馬を引いていた)時に矢作川が氾濫して河水が濁り水深深くなっていました。
その時弥四郎が真っ先に川に足を入れて水深を測る瀬踏みを行って、家康に取り立てられたという逸話があります。

その他にも家康が趣味の鷹狩に没頭していた時に、石川数正や酒井忠次などにはほどほどにするように止められていました。
しかし弥四郎は家康の味方になり、鷹狩に従ったので家康に気に入られたという話もあります。

その他にも民政や算術に長けていたそうで町奉行を務めるようになり、家康にも嫡男の信康にも使えるようになったそうです。

 

家康&信康親子のお気に入りの立場を利用して武田勝頼と内通し、クーデターを起こそうとしていました。

「家康が来た」と言って城を開門させ、武田軍が押し寄せ城を乗っ取る。
岡崎の家臣の妻子を人質にして、家康の家臣を引き込み、家康が進退窮まって落ち延びるところを待ち伏せして討ち取るという計画だったそうです。

 

大岡弥四郎とは:越前忠相は子孫?江戸奉行?

「大岡弥四郎が町奉行をしていた」
何となく気になりませんか?

有名な町奉行で大岡と言えば!!
「大岡越前の守忠相」ですよね
第8代徳川将軍 吉宗の側近として享保の改革を支えたあのお方。
テレビドラマでも人気の大岡越前

大岡越前と大岡弥四郎の関係は?
実は大岡弥四郎の兄弟の子孫という話があります。
遠縁の子孫という話もありますが、はっきり知りません。

徳川家に奉公した2人の大岡、気になりますね。

大岡弥四郎とは:築山殿との関係は?

家康にも気に入られていた大岡弥四郎。
息子の信康にも気に入られていたのには、築山殿の意向があったとも言われています。
つまり築山殿といい仲だったんですね。
過去の大河ドラマでも大岡弥四郎と築山殿が密通していたというストーリーもあったほど

というのは後世の作り話だそうです

ただ築山殿が武田方の歩き巫女と接触し、武田勝頼と内通していた。
大岡弥四郎のクーデターは実や築山殿と信康のクーデターで、大岡弥四郎が実行犯だったという説もあります。

武田信玄亡き後、武田軍が衰えて徳川家が安泰になるかと思いきや、
とても優秀な後継ぎの武田勝頼の猛攻で、徳川家は徐々に領土を減らしていました。
このままでは徳川家は滅亡。
かわいい信康も討ち取られる前に武田方に寝返り、信康率いるシン(新)・徳川家は武田家の家臣になって残ろうとしていたのでは?

どれが本当だったのでしょうか?

 

大岡弥四郎とは:最期の死因は?

大岡弥四郎が実行犯だったのか主犯だったのかはともかく、クーデターは重罪です。

大岡弥四郎は指10本切断され、足の筋肉を切断され、首だけ出した状態で生き埋めとなりました。
そして、その首を通行人が交替で竹のこぎりと鉄鋸で切るという鋸引きという残酷な刑でした。

そして妻子は磔になったといいます

そんな大罪を犯した者の子孫が大岡越前として後の世に徳川家で後に取り立てられることがあるのか?
重罪人の家族や親族は連座して処罰されているはず。

実は築山殿がクーデターの主犯格で、大岡弥四郎はただ巻き込まれたというかトカゲの尻尾斬りにあっただけ。
何なら罪を着せられただけだったので、後で真相を知った家康に大岡家は改めて取り立ててもらえたとか?

ちょっと妄想が膨らんじゃいました。

まとめ:大岡弥四郎とは越前忠相や築山殿との関係は?最後の死因は?NHK大河ドラマどうする家康

大岡弥四郎は築山殿事件につながるキーパーソンで、武田方と内通した裏切り者でした。
クーデターは未然にふさがれ、処罰されました。

「どうする家康」(2023年)では
大岡弥四郎の言葉で

「殿はずっと戦ばっかり。わしらに戦って来いとずっと言い続ける。」
「御恩や忠義は我らを死に向かわせるまやかしの言葉だ」

とありました。

厭離穢土欣求浄土という家康の理想を叶えるのは奇麗事だけではなかったということですね。

太平洋戦争でも使われていた「御恩や忠義」の言葉、今後は権力者が使うことのない世でありますように

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