長篠の戦いとはご存じですか?
最近新説も出てきています
嘘か本当か
実は今でも謎の多い戦い
一緒に解き明かしていきましょう!!
長篠の戦いのウソ:誰が戦った?武田対織田徳川連合軍
長篠の戦いは奥三河国 長篠城(現・愛知県新城市長篠)をめぐり、織田信長・徳川家康連合軍と、武田勝頼の軍が戦いました。
信長・家康連合軍3万8千対 武田軍 1万5千の戦いだったとか。
ちなみに小学校で虹子編集長が習ったときは武田信玄VS信長&家康 だと思っていました。
勝頼って誰?ってなってましたね。
両軍ともに参加した武将は有名な武将が多いです 以下参照
- 織田軍
- 織田信長、織田信忠、柴田勝家、丹羽長秀、羽柴秀吉、滝川一益、明智光秀
- 佐久間信盛、水野信元、池田恒興、森長可、蒲生氏郷、佐々成政、前田利家、
-
- 徳川軍
- 徳川家康、松平信康、石川数正、本多忠勝、榊原康政、鳥居元忠、大久保忠世・平岩親吉、渡辺守綱、酒井忠次、
- 武田軍
- 武田勝頼、穴山信君、小山田信茂、山県昌景、馬場信春、真田信綱・昌輝・昌幸
(武藤喜兵衛)兄弟、内藤昌秀
歴史の教科書では信長・家康軍が圧勝となっていますが、武田軍も途中までは負けていなかったという話が本当らしい。
長篠の戦いのウソ:設楽原の戦い?鳶ヶ巣山の戦い?読み方は?
長篠の戦いは鳶ヶ巣山の戦いと設楽原の戦いを総称していうらしい。
・・・・・・・読めません。
鳶ヶ巣山の戦い(とびがすやまのたたかい)、設楽原の戦い(したらがはらのたたかい)と読みます。
地名って難しいですね。
虹子編集長はずっと、長篠の戦は長篠城で戦った戦いと思っていましたがそうではないらしい。
長篠城を巡る攻防中で、鳶ヶ巣山の戦いと後設楽原での最終決戦があり、最終的に信長&家康連合軍が勝った。
だから総称として「長篠の戦い」と言われているらしい。
ここに関してはお偉い研究者の方々でも「設楽原の戦い」と改める方がいいとか論争があり、決着がついていないようです。
関ケ原も関ケ原で戦っていないとか言われているのと一緒ですかね?
ちなみに設楽原には馬防柵の再現がされているそうですよ。
長篠の戦いのウソ:戦死者は誰?活躍したのは?勝頼は愚将?
武田二十四将のうち、山県昌景、馬場信春、真田信綱・昌輝、内藤昌秀など、重臣が亡くなっています。
原因は「武田勝頼がかの有名な武田騎馬隊の力を過信して、無謀にも火縄銃の威力を知らず突入した」
「武田勝頼が愚将だったから」というのが通説です。
確かに重臣含め多くの家臣が亡くなっており、跡継ぎも一緒に出陣して亡くなりました。
そのため家来の家の存続のために、次男や三男に相続させたり、出家してた者を還俗までさせて家の再興をさせたらしいです。
長篠の戦い以降、武田軍の能力が落ちたことは間違いないでしょう。
ただ勝頼が火縄銃の威力をわかっていなかったというのはウソで、武田軍にも鉄砲隊は配備されていました。
比率も織田軍と一緒。
ではなぜ突っ込んだか
ここでえびすくい酒井忠次が活躍したからです。
鳶ヶ巣山の戦い(とびがすやまのたたかい)で長篠城を取り囲んでいた武田軍の鳶ヶ巣山の砦を破ります。
そして籠城していた長篠城の奥平信昌軍と合流し、設楽原に布陣していた武田軍を後ろから追い詰めることになります。
退路を断たれ挟み撃ちになりかけた武田軍。
退却せずに、勝頼は馬防柵に守られた織田・徳川連合軍に真っ向勝負するしかなかったのです。
退却して建て直したらよかったのにね。
武田勝頼は騎馬隊が鉄砲に勝てると思っていたり、「騎馬隊最強!!俺ら最強!!」って天狗になっていたわけではないけど、家臣のいうことを聞いて退却しなかったところは若気の至りなんでしょうか??
長篠の戦いのウソ:三弾撃ちはなかった?
長篠の戦いは馬防柵と火縄銃の三弾撃ちが有名で、武田軍を破った立役者と言われています。
ただこの三弾撃ちはウソじゃないの?と言われています。
確かにNHKの番組「歴史探偵」でも検証されていました。
虹子編集長は「英雄たちの選択」と「歴史探偵」が好きです!!
3列の鉄砲隊が順番に揃って射撃する従来の三弾撃ちのイメージだと、連射ができない、弾込め、火付けが必要な火縄銃では発射までに時間がかかります。
「歴史探偵」ではコンビニエンスストアのレジのように、準備ができたものから次々交代して撃つ方法が紹介されていました。
これだと準備に時間がかかりません。
「どうする家康」では射撃隊と準備する隊に分かれて、準備時間のロスを減らしていました。
これだと射撃の上手な人が打ち続けることにもなるので、効率的かな?
それでは三弾撃ちは創作だったのか??
馬防柵が3重に作られていたので、三弾撃ちしているように見えたもしくは三重の柵と途切れない射撃で「三弾撃ち」となったのかなあ~と虹子編集長は思っております。
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