NHK大河ドラマ「どうする家康」第19話で話題になったお万
実は2人いた!?
徳川家康の数いる側室の中でも男子を生んだのに冷遇されたことで有名です
今回は息子の結城秀康とともに見てみましょう
側室になるには正室の許可が必要だった!!
側室と正室の確執!!
みたいな2時間ドラマや昼ドラのようなことをつい想像してしまいます。
しかし現代とは違い、子どもが成人せず病気などで死んでしまう戦国時代
せっかく大人になっても戦で命を落とすことも多かった時代
子供や男子は多ければ多いほど、歓迎されました
一説では
信長は正室1人、側室11人、子どもは12-24人(養子も含む?)
秀吉は正室1人に側室200人??子供は4名
家康も生涯正室2人に側室10数名、子供は16人いたとされています
子供は人質や縁組などで外交上の重要な役割がありました
従って側室も家同志のつながりを強化する役割もあったため、それなりの家柄から選ばれる場合が多く、選択権は正室にあったと言われています
側室が産んだ子供の教育は正室が行ったりもしていたそうです
歴代のNHK大河ドラマでも
「麒麟がくる」では帰蝶(濃姫)が奇妙丸(織田信忠)を養育していたり
「どうする家康」でお葉(西郡の局)を側室に選んだのは家康の母於大の方と瀬名(築山殿)でしたね
お万の方は二人いた!冷遇された方と寵愛された方
実は家康の側室にはお万の方が2人います
なので資料によっては二人の話がゴチャゴチャ混ぜ込まれており、諸説あります
しかし同じ名前でも冷遇された方と寵愛された方がいます
冷遇されたお万の方は
長勝院(ちょうしょういん)とも小督局(こごうのつぼね)とも言われています
次男 結城秀康の母です
寵愛されていたお万の方は
養珠院(ようじゅいん)ともいわれています
熱心な日蓮宗の信者だったらしいです
十男・頼宣(よりのぶ)や十一男・頼房(よりふさ)の母です
ちなみに十男・頼宣(よりのぶ)は徳川御三家の紀州徳川家の祖となり、
十一男・頼房(よりふさ)は徳川御三家の水戸徳川家の祖となりました
壮絶な人生お万の方:長勝院・小督局
今回は冷遇された方長勝院(小督局)のお話です
家康次男・結城秀康の生母として知られる人です
はじめは正室築山殿の侍女でしたが、風呂場で家康の手付となったらしい。
そして秀康が産まれました
しかしお万を築山殿はお万を側室とは認めなかったそうです
そして秀康も次男と認めてもらえなかったとか
築山殿が彼女の妊娠を知ったとき、寒い夜に裸にされて城内の庭の木にしばり付けられたとか。
「どうする家康」(2023年)ではその逸話を上手に使っていましたね
創作だとは思いますが、正室が認めていないとこういうことになるのかと。
過去の大河ドラマ「武田信玄」(1988年)でも正室が側室を縛り上げたようなシーンがあったような、、、
秀康双子説もあり、
当時双子は忌み嫌われていたことから、母子ともに家康に冷遇されたという説もあります
紆余曲折あり、最愛の息子が30代で亡くなると家康の許可なく剃髪し、出家されたそうです
家康は冷遇したことが後ろめたかったのか、特にお咎めはなかったそうです
家康の側室の選び方
天下をとるまでは、家康は未亡人など1度子どもを産んだ実績のある人を側室にしていました
「年増好み」と口の悪い人が言っていたとか
実際には正室や母、重臣の意向だったのではないでしょうか
子供、特に世継ぎとなる男子を産むことが重要とされていた時代ですから
その反動で天下人になってからは、若くて好みの女性を寵愛したとか
家柄等に縛られず、自分の意のままに側室を選べて喜んだのでしょうか?
秀吉は家柄のいい女性を側室にたくさん迎え入れていたようです
確かに淀殿も主君である織田信長の姪に当たりますから
身分が低かった反動でしょうか
家康と秀吉の側室の選び方だけでも、人それぞれですね
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