徳川家康三大の危機と言えば「三河一向一揆」「三方ヶ原の戦い」「神君伊賀越え」ですよね
三河一向一揆についてはこちら
伊賀越えについてはこちら
「三方ヶ原の戦い」はどうする家康でも第17話、18話と丁寧に描かれ、「真・三方ヶ原」のタイトルを含め注目を浴びました。
今回は三方ヶ原の戦いについて皆さんの知りたいところを、ギュッと虹色の歴史と大河ジャーナル的にまとめてみました!!
三方ヶ原の戦いとは?読み方は?新説?
三方ヶ原の戦いは徳川家康が、武田信玄にコテンパンにやられた合戦です
読み方は「みかたがはらのたたかい」です。
室町幕府第15代将軍である足利義昭と織田信長が対立し、
とうとう織田信長討伐令が出されました
いわゆる第二次信長包囲網です
将軍の意向に応え元亀3年(1572年)武田信玄は上洛を目指して、遠江に侵攻。
信玄の西上作戦と言われ、遠江と三河へ同時侵攻が行われました
遠江といえばようやく徳川家康が平定したところ
信玄が25000の大軍に対し、家康側は約8000
同盟を組んでいた織田信長の援軍は3000ほど
直接戦っても負けるため浜松城で籠城することになります
ところが信玄は浜松城を素通りして、西へ進んでいきました
ここで「よかった~」と城にいればいいものを、「俺のプライドが許さん!!」と家康は家臣の反対を押し切り浜松城から討って出て、信玄の背後を衝く作戦だった
というのが従来の説です
最近の研究では信玄は最初から浜松城を直接攻撃する気はなかったという説があります
信玄は浜名湖湖畔にある堀江城を攻め落とし、浜松城を兵糧攻めにするつもりでした
その意図に家康が気付き、正面からでは数で負けるので、信玄を背後から急襲しようと三方ヶ原に向かったのでは?という説です。
どちらにせよ、家康が数で勝る武田軍を追い詰めようと、三方ヶ原にやってくるだろうと信玄が見抜いていたことにより、待ち構えていた武田軍に家康軍は大敗することになります。
信玄が見抜いていたというより、三方ヶ原で背後を襲うしかない状況に持って行ったということでしょうか
やはり信玄恐るべし
三方ヶ原の戦いで家康の身代わりとなった者がいた!!戦死者は?
待ち構えていた武田軍は強かった
家康自身は何度も討死しそうになりながら敗走し、夜陰に乗じてなんとか浜松城に辿り着きました
浜松城に帰った時は僅かな供回りのみだったとか
織田信長が桶狭間の戦いでジャイアントキリングをしたので、「わしも桶狭間を信玄相手にやるぞ!!」と思った?家康さん
信長を真似たのは金ヶ崎の退き口でした・・・。残念
金ヶ崎の退き口についてはこちら
(金ヶ崎の退き口の時も実は家康はピンチだったんですけどね。詳細はこちら)
家康が生き延びられたのは家臣のおかげ
何人者兵が犠牲になり、その中には重臣もいました
本多忠勝の叔父である本多忠真も犠牲者の一人
どうする家康では呑兵衛殿として波岡一喜さんが演じておられました
幼少期に父を失った忠勝を傷1つ負わない名将にまで育てた方です
三方ヶ原の戦いで徳川軍撤退時に殿を引き受けました
旗を左右に突き刺し、「ここから後ろへは退かぬ」と言って家康の逃げる時間を稼いだとか
どうする家康では甲本雅裕さんが演じる夏目広次も戦死しています
浜松城に残っていた広次ですが、自軍が敗走一歩手前と知ると家康救援に向かい、殿に撤退を進言します。
しかし家康は聞く耳を持っておらず、吉信は家康の馬の向きを強引に変更し家康を撤退させました。
残った吉信は家康の槍を持って、家康のふりをしてに少ない兵を引き連れて武田軍と戦い敗れました。
どうする家康では忠吉じいちゃん(イッセー尾形)さんの息子で、元忠(音尾琢真)の弟殿を引き受け死んでいます
三方ヶ原の戦いで有名なエピソード:恥ずかしい家康公
三方ヶ原の戦いにはいくつかエピソードがあります
①学びは命を助ける
浜松城へ到着した家康は、全ての城門を開いて篝火を焚き、いわゆる空城計を行って
山県昌景の追撃を止めたらしい
読書家だったことが功を奏したんですね
②どうする家康では柴田理恵さんが活躍する?
敗走中の家康が茶屋に立ち寄り老婆から小豆餅を買って食べていた
しかし武田軍の追手が迫ってきたので食い逃げした
そして、後から老婆が追いかけて家康から代金を徴収したという話
「どうする家康」で柴田理恵さんが演じる団子売りの婆さんが、このエピソードに絡んでくるかも。
しかし、生きるか死ぬかの中でのんびり餅食べる余裕があったんかいな??
③戒めのためのしかみ像は偽物?
自分の慢心から家臣の反対を押し切って、家康が武田に戦いを挑み大敗をしてしまった家康。
自分を戒めるために描かせ、家康は生涯戒めとして持っていたと伝わるしかみ像(徳川家康三方ケ原戦役画像)
「おんな城主直虎」【2017年】では阿部サダヲさんがしかみ像のポーズで負け惜しみを言っていました。
実は家康を描いたものという史料的根拠もなく、江戸時代につくられたものだとか。
神の君家康公を敬うために子孫が使っていたそうです。
④味噌伝説
敗走中の家康が恐怖のあまり脱糞しちゃったという恥ずかしいエピソード。
しかも浜松城に無事帰ってきたときに、家臣からツッコまれて「これは味噌だ」と言い放ったという逸話が有名です。
史実かどうかはわかりませんが、おもしろいですよね
「おんな城主直虎」では阿部サダヲさんが「これは焼き味噌じゃ!」って言っていました。
2020年の大河ドラマ「麒麟がくる」では風間俊介さんが「焼き味噌」をやってくれるか??と期待しましたが、ジャニーズなので「大敗した」という説明セリフがあっただけでした。
「どうする家康」では同じジャニーズの松本潤家康公が「焼き味噌」をやるのか???
期待が高まります
→ジャニーズでは「脱糞だ」は禁忌でした
三方ヶ原の戦いはなぜ有名?神の君家康公の大敗した戦なのに
恥ずかしいエピソードも多い三方ヶ原の戦いですが、神の君なのに語り継がれていたのがすごいですよね
これには三方ヶ原の戦いで家康を守った者たちが
「俺は家康公を守って生き延びた!」とか
戦死した兵の子孫が
「殿を守ってお父ちゃんは死にました」と後で褒美をもらったり、自慢するために
エピソードとして残ったと言われています
「どうする家康」の大鼠が服部半蔵に「半蔵さまがが死んだら誰が、うちの家族に金を渡して食べさせてくれるんですか?」って言っていたことを思い出します
みんな例え討ち死にしても、家康が生き残れば自分の家族は大事にしてもらえる!!という気持ちだったのでしょうね
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